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横浜地方裁判所小田原支部 昭和54年(ヨ)239号 決定

申請人 伊藤正治

〈ほか七名〉

右八名代理人弁護士 増田次則

被申請人 足立若雄

右代理人弁護士 田中茂

主文

申請人らの本件申請を却下する。

申請費用は申請人らの負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  申請人ら

被申請人は、別紙物件目録記載の建物の北側の窓を開放してはならない。

二  被申請人

主文第一項同旨

の決定。

第二当事者の主張

一  申請人らの申請の理由の要旨

1  申請人らは、昭和四二、三年ころより伊勢原市西富岡の各肩書住所地に土地を求め、昭和四七年ころより居宅を建て、あるいはこれを求めて居住するようになり、以後この地は閑静な住宅地の様相となった。

2  被申請人は、申請人らの居住前より、申請人らの居住地に隣接する肩書住所地において牛舎を設けて酪農を業としていた者であるが、昭和五三年一一月ころから新牛舎の建築に着手し、これを完成させた。

3  右の旧牛舎と新牛舎(以下これを本件牛舎という。)並びに申請人ら居住地との位置関係はほぼ別紙図面のとおりであるが、牛舎と隣接する申請人らの宅地とは一メートルないし五、六〇メートルの距離しかなく、また同牛舎の北側は全面窓となっている。

4  酪農による悪臭の強度は規制値をはるかに超え、極めて強いものである。

5  そして、被申請人が換気のため本件牛舎の北側の窓を開放するため、牛舎より発する悪臭が申請人らの居住地に全面的に流れ込み、ハエ等も飛来し、特に窓を開ける機会の多い六月から一〇月の間は自宅での生活に耐えられない状態にある。

6  本件牛舎については次の問題点がある。

イ 被申請人は本件牛舎の建築にあたって、事前に申請人らに対し何等の説明をなさず、申請人らがこれに気づいて説明を求め、話合の機会を持った際にも一方的に話すのみで申請人らの要望を顧慮することなく建築を強行した。

ロ 本件牛舎敷地内の建築の位置についても申請人らの住居との間隔をとることが可能であったのであり、その構造に関しても北側に窓をつけることなく換気扇の設置等により申請人らに与える影響を軽減することが可能であったにもかかわらず、その配慮を怠っている。

ハ 被申請人は悪臭の発生源である牛の排せつ物の取扱いについても、排せつ物運搬用のコンテナを密封せず、一部を放流したり、トラックの荷台に放置するなど適切な処理をしていない。

7  以上の事実から被申請人の本件牛舎の使用、とりわけ本件牛舎北側の窓の開放は申請人らの住宅環境を破壊し、悪臭等に関して申請人らに社会生活上の受忍限度を超える忍従を強いるものである。

ニ 被申請人の主張の要旨

1  本件牛舎の所在する土地は伊勢原市における市街化調整区域、農業振興地域に属し、酪農等の盛んなところであって、申請人らの居住地の周辺には牛舎等が相当数存在し、被申請人は、肩書住所地において代々畜産業を営んでいる。

2  旧牛舎当時よりも牛の頭数が減っているにもかかわらず、旧牛舎に比べて二倍の規模を有するが、これはバーンクリーナー設置等の諸設備改善のためであって、浄化槽の性能向上、自動消毒装置(スプレヤー)の設置等と相まって環境保全面において旧牛舎当時より飛躍的に向上している。

3  神奈川県の「悪臭防止法による悪臭物質の排出の規制地域の指定及び規制基準の設定」告示によると、伊勢原市において規制地域は市街化区域のみであり、その基準はアンモニア二PPmであるところ、昭和五五年三月一七日、牛舎より五、六メートル離れた風下での測定の結果アンモニア〇・〇四七三PPmであって、神奈川県及び伊勢原市の規制基準を大幅に下回っている。

4  乳牛であるホルスタイン種は、原産地が北欧のため寒冷には強いが、暑熱に対する抵抗性は極度に弱く、温度が摂氏二六度を超えると代謝障害を起し、換気不良な高温多湿の環境下では熱射病となって死亡する危険もあり、その他暑熱は乳牛のストレスとなり、ケトージス、起立不能症等の病気の誘因となる。従って乳牛の飼養においては、夏期における舎内の高温多湿の空気を排除し、舎内空気を動かし、乳牛体表面からの熱放散を助けるためには適正な換気設備が必要であり、本件牛舎においては北側部分の窓の開放が不可欠である。

理由

一  本件各疎明資料によると、次の各事実が一応認められる。

1  申請人らは、昭和四三年以降肩書住所地に土地を求め、昭和四六年ころから建物を建てて居住し、その一角は住宅地を形成しており、被申請人はこれと隣接する土地に居住し、従前より家蓄を飼育し、昭和初期になって乳業を主とした酪農経営に従事しているものである。

2  当事者の居住する地域は伊勢原布において都市計画法上市街化調整区域にあり、酪農の盛んなところで、申請人ら居住地より半径約一〇〇メートルの範囲内には牛舎三棟、豚舎三棟、鶏舎四棟が存在している。また本件地域は悪臭防止法による悪臭物質の排出の規制地域にも指定されていない。

3  被申請人は、昭和五三年ころ旧牛舎の大幅な増改築を企図し、昭和五三年一二月一三日に建築基準法上の確認を受け本件牛舎を完成させた。

本件牛舎は、旧牛舎に比べて二倍の規模であり、その位置も旧牛舎のあった位置よりも申請人の土地に寄っており、申請人伊藤正治、同高橋良明の土地との境界線から約一メートル隔っているのみである。

4  他方本件牛舎は旧牛舎と比較すると、設備的には次の諸点において改善されている。

イ  従前は、本件牛舎の敷地部分が牛の放牧場となっており、そこで牛が排出した糞尿の処理が十分にできなかったが、本件牛舎ができてからは、その排せつ物の処理が次のバーンクリーナー及び浄化槽によって処理されるようになった。

ロ  本件牛舎では、バンクリーナーを設備し、これを一日二回作動させることによって牛の排せつ物を屋外のコンテナに搬送して処理することができる。

ハ  浄化槽も神奈川県の指定するものを使用し従前のものよりも改善されており、定期的な検査にも合格し十分の機能がある。

ニ  ハエ等の発生を抑制するために自動消毒装置が設置されている。

ホ  牛の頭数は従前よりやや少くなっている。

5  乳牛は、北欧などの涼しい気候で育った動物であり、体内での熱の発生量が多い割には他の動物に比較して熱を放出することが苦手であって、高温多湿の環境下においては乳量の低下にとどまらず病気を誘発し死亡することもありうるという性質を有しており、夏場における牛舎の換気は不可欠である。

6  悪臭の程度の測定は、悪臭物質の種類、測定時の気象条件等により大きく左右され困難な事柄ではあるが、悪臭防止法上の基準及び環境庁の昭和五一年度における畜産業に関する悪臭測定結果中の悪臭物質の平均濃度表(環境庁大気保全局特殊公害課編集「悪臭防止技術マニュアル」掲載の表2・27)を比較すると次のようになる。

悪臭物質

神奈川県における規制値

(境界の地表におけるもの)

酪農、肉牛の平均濃度

(5メートル以内)

アンモニア

二・〇―一・〇

一・五三

トリメチルアミン

〇・〇〇五

〇・〇一六

硫化水素

〇・〇二

〇・〇一四二

メチルカプタン

〇・〇〇二

〇・〇〇〇九七

(単位はいずれも PPm)

また、前記「悪臭防止技術マニュアル」中の表2・29中のバーンクリーナー設備の開放型牛舎においてはほぼ右の規制値以下である。そして本件牛舎はその設備の程度を考えるとこれから発生する悪臭は悪臭防止法規制地域の基準値を超えているとは推認し難い。

7  ハエが申請人らに影響をおよぼしていることは認められなくもないが、申請人らの居宅周辺に多数の畜舎等があることを考えるとそれが本件牛舎に起因するものであるとは言えない。

8  本件牛舎北側の窓の開放に代わり、かつ容易になしうる設備は見出せない。

二  以上の諸事実によれば、被申請人が本件牛舎の建築に際しての申請人らへの対応や畜舎の配置につきいささか配慮を欠いている点も見られなくもないが、被申請人の先住関係、地域性、並びに本件牛舎の設備及びこれから推認されるところの悪臭の程度等から見て、被申請人の本件牛舎から発生する悪臭等による侵害が申請人らにとって社会生活上受忍すべき限度を超えていると言うことはできず、他にこれを覆すに足る疎明はない。

三  したがって、申請人らの本件申請は被保全権利の存在について疎明がないことになり、事案の性質上疎明にかわる保証をたてさせてこれを認容することも相当でないので、仮処分の必要性について判断するまでもなく理由がない。

そこで、本件申請を却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 栗田健一)

〈以下省略〉

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